切花栽培 100年の歴史

 
1917年(大正06年)

現在の大阪で、猿棒忠恕氏がアメリカ式温室栽培を始める。

1918年(大正07年)

関東では烏丸光大伯爵が大井町で、伊藤貞作が中野で温室栽培を試みる。

1923年(大正12年)

順調に営利栽培は増加していたが、関東大震災で大きな打撃を受ける。戦前、世相は不安定であったものの、各地にバラ会が設立され、品評会や研究会などが盛んに行われる。

1939年(昭和14年)

第二次世界大戦勃発により平和産業は衰退。温室で花を作る時代ではなくなり、食糧増産や軍事資材として鉄材やガラスを提供する。

1945年(昭和20年)

終戦後、バラ栽培が再開される。

1957年(昭和32年) 

日本ばら切花協会設立。生産技術の向上により昭和40年代に入ると飛躍的に発展。

1970年(昭和45年)

キク、カーネーションに次いで、第三の切花として農林水産省の統計に単品目として掲載され始める。

1978年(昭和53年)

ロイヤリティ(特許料)の考え方が含まれた「新種苗法」が適用され、国内での育種が進む要因となる。

1985年(昭和60年) 

ロックウール栽培(養液栽培)が導入され、生産性の向上が図られる。スプレータイプの生産も増加。 バブル時代の好景気に支えられ需要が高まり、それとともに生産も増加。

1991年(平成03年) 

ロックウール栽培(養液栽培)と結びあわせたアーチング栽培法が開発される。国内で育種された品種(ローテローゼ、パレオ90など)が多く栽培される。

1990年代は同一品種を大量に生産する産地が多く品種数も限られていた。

2006年(平成18年)

温室暖房の燃料である重油価格の高騰により、園芸用電気式ヒートポンプシステムの導入が進む。

2000年代は多様化するニーズにあわせ少量多品種生産が進み、現在は海外のどの国よりも多種多様なバラが流通されるようになる。